アンネのバラ その由来と日本伝来のルート
アンネのバラ ・・・ ルーツ、名称、日本伝来と伝播の真実
平成11年3月1日 1,はじめに 私は縁あって平成9年春<平和の使徒>と言われている通称「アンネのバラ」を頂いた。個人で鑑賞するよりもと考えて 杉並区立向陽中学校の創立50周年記念樹として同校に寄贈した。そこでこのバラについての「説明板」を作ろうとして驚いた。 標記のそれぞれにについて、それぞれ異なる説が対立していることがわかった。学校だから「自説」ではなく「真実」を書きたいと考えた。 幸いこのバラのル−ツについてはサカタ種苗の蔵方健次氏のお陰で、バラの国際登録機関のチエックリストによって疑いの余地無く明確にする ことができた。また、日本への伝来と伝播については当事者であった聖イエス会の大槻道子氏、綾部市の山室建治氏に直接取材する事ができたので 真実をあきらかにできたとおもっている。私の、この研究にお力を貸していただいた方々と、平和の使徒と言われるこのバラを黙々と増やし、 広めておられる方々に改めて敬意を表したい。 2,「アンネのバラ」の「ル−ツ」と「正式名称」 このことについて当時私が調べた出版物、公園や学校におけるこのバラの説明板、 園芸店の表示によると「アンネのばら」「アンネ.フランク」「アンネの形見のばら」「アンネの想い出」の四つを見つけた。一方「ル−ツ」には 「アンネ一家が、ナチスの厳しい追及を逃れるために息を殺して潜伏したオランダの隠れ家の中庭に咲いていてアンネを慰めたバラ(の子孫)」、 「ベルギ−の園芸家が、アンネの隠れ家の裏庭に生えていた野薔薇を品種改良して作り出してアンネフランクと命名したばら」、「アンネの生家の庭に 植えられていた薔薇(の子孫)、「アンネフランクの父オット−フランク(アンネ一家でただ一人生き残った。)がスイスで作っていたばら」、の四つ であった。しかし、この事については、『はじめに』で述べた通り国際的なバラの新品種登録の文献によって一挙に解明する事ができた。 「ル−ツと名称の真実」 下記の文献から分かることは、「アンネのバラ」は一般的な俗称であり、正式な品種名は「Souvenir de Anne frank」英語では ないが、強いてそれ式にいえば<ス−ベニア.デ.アンネフランク.F>である。(最後の「F」は「小輪種」であることを示す登録記号)ス−ベニアを土産、 想い出等と訳せば「アンネの形見のバラ」「アンネの想い出」などは正式名称の日本語訳の一つといえる。更に、このバラがベルギ−人の園芸家デルフォルゲ氏 によってアンネの没後15年経って作られ、国際登録の上、スイス在住のアンネの父オット−フランク氏にも贈られたことからル−ツは明確である。 しかも、新品種を作出するために、その親として、すでに国際的に登録済みのピ−ス(平和)や少女を表す小輪種の遺伝子を取り入れるなど、アンネと同年代で、 彼女の日記などから其の考え方に共鳴していることが伺える。 ( ベルギ−語?かも知れないが、発音は英語式で) 書名= モダン ロ−ゼス 8 1980年発行、(中身は国際的なバラのチエックリストであり、バラの国際的登録機関であるアメリカばら協会、 マックハ−レン 社の編集.発行。)アンネのバラの部分は下記のとうり。 品種名=Souvenir de Annefrank .f (ス−ベニア デ アンネフランク) 作出者=Delforge (デルフォルゲ.ベルギ−の園芸家) 作出年=1960年(アンネは1945年没だから15年経っている) 交配種=Peve de capri 特徴=花は中輪、花びら17枚、花がオレンジ、先が黄色、先が裂ける、四季咲き。 3,日本伝来と国内伝播の真実 国内伝播についてはすべてを明らかにすることは不可能だった。 @アンネの父オット−フランク氏と日本人との出会い 昭和46年、聖イエス会聖歌隊がイスラエルで偶然オット−氏と出会い、彼がアンネの父である ことを名乗った。メンバ−の一人大槻道子氏は特にアンネと同年代であり、アンネの日記の愛読者でもあり、語学もできたのでオット−との 間で60通近い文通を重ねたという。 A、1回目に贈られてきた10本のバラの苗 昭和47年12月、クリスマスの日に突然オット−氏からアンネのバラの苗が10本ふつうの小包でおくられて きた。40日位は経っていたろう。検疫できれいにあらった根と冬の寒さである。関西で10人に分けたが9本は枯れた。 ところが唯1本だけ京都嵯峨野教会の大槻武二氏の庭で根付き、昭和48年春、日本で始めての花が咲いた。 しかし樹勢も弱かったのであろう。この苗からは増やすことはしなかったようである。 B、2回目に送られてきた元気な10本のバラの苗 こんな中で、昭和50年大槻道子氏をふくむ聖イエス会しののめ合唱団がスイスに住むオット−氏を訪ねた。 当然バラも話題になり、「再会記念にもう一度」となり、今度は51年春3月、打ち合わせた上で航空便だから大阪空港で受け取り その日のうちに植えることができた。大槻氏は7本を関西に運び、杉並区高井戸中の小林桂三郎氏は3本を東京に運んだ。 今回は移植の最適期、苗も元気でベストコンデェシヨンだった。 C、献身的に苗を増やし、広めて下さった先達たち このときの10本は元気も好くそれぞれに増やされていったと思われるが、すべては 把握していないが、 その中の1本を託された京都綾部市の山室隆一、建治氏父子のことは特筆したい。隆一氏は日本で始めてアンネのバラの花を咲かせた大槻武二氏の甥であり 道子氏のイトコである。高校の教師だったお二人は使命感にもえた。自宅の庭30坪位を苗場にした。総て野ばらに接ぎ木する方式である。挿し木より丈夫な 苗ができるからである。頒布は予約制で総て送料だけ。3年前で約7000本を全国に発送したという。 この流れのなかで、草の根のように増やされている中に、古くは世田谷ソフイア教会の山根日出子氏、近年は神戸西宮のアンネのバラ教会がめざましいようである。 3本を東京に運んだ小林氏は、立川の都立農事試験場の協力を得て万全を期し、杉並区立高井戸中で増やし、都立神代植物公園、学校、地域にひろめた。この他に 篤志家は多いと想われるが、最近アンネのバラ友の会埼玉支部をまとめる西城戸司氏(埼玉大教授)の活躍もめざましい。 高 橋 光 安 |